私たちがふだん食べている米や野菜、果物などほとんどの農作物は、人の手で品種改良されたものです。ところが魚などの水産物では、品種改良の事例が世界でもほんの数例しかありません。それも数十年という年月をかけて成功した事例ばかりです。それほどに水産物の品種改良というのは困難なのです。その難しい魚の品種改良をたった2~3年で実現してしまうベンチャー企業が日本に登場しました。それがリージョナルフィッシュです。同社は、魚の遺伝子情報の一部を切り取る「欠失型ゲノム編集技術」によって、標準よりも肉厚なマダイや、成長スピードがおよそ2倍のトラフグを生み出し、今、世界で注目を浴びています。そこで今回SD編集部ではリージョナルフィッシュの東京オフィスを訪ね、創業の経緯から現在の事業展開について、経営企画部マネジャーの岩井愛可さんにお話をうかがいました。
海の環境変化で、日本の漁獲量が激減
日本では長らく「魚離れ」が続いています。主な原因は食の欧米化と言われていますが、「魚は調理が面倒」とか「値段が高い」といった理由で敬遠する人が増えているのです。
ところで、日本の近海では魚が獲れなくなっているのをご存じでしょうか。農林水産省が2022年5月に発表した2021年の漁業・養殖業生産統計によると、日本の養殖を含む漁獲量は417万3000トン。ピークだった1984年(1281万6000トン)のおよそ3分の1にまで減っているのです。
84年のピーク時、日本は世界一の水産の生産量を誇っていました。それが今では8位に後退。現在のトップは中国で、その漁獲量は日本のおよそ20倍。その中国をインドネシアやインド、ベトナムといった東南アジア諸国が追いかけている状況です。意外にもここ40年ほどの間、世界の生産量は倍増しているのです。
なぜ同じアジアで日本だけ生産量が激減しているのでしょうか。その理由として、80年代から沖合漁業及び遠洋漁業が禁止されたことや乱獲などが考えられますが、最大の要因は地球温暖化の影響と言われています。気象庁によると、世界の海水の平均水温はここ100年ほどで0.56度上昇している一方、日本近海では1.16度と、世界平均の約2倍のスピードで推移しています。
国内での生産量が激減する中、輸入に頼ってきましたが、近頃では他国に「買い負け」しており、日本に魚が入ってこなくなりました。国民が「魚離れ」をしている間に、日本は食べたい魚が自由に食べられない国になってきているのです。
ゲノム編集技術で品種改良されたマダイとトラフグ
こうした中、日本の水産業に新しい可能性をもたらすベンチャー企業が登場しました。それがリージョナルフィッシュです。同社ではゲノム編集による水産物の品種改良と、AI/IoTを活用したスマート養殖との合わせ技によって、これまでに可食部(身の量)が1.2倍のマダイ(「22世紀鯛」)と、成長スピードがおよそ2倍のトラフグ(「22世紀ふぐ」)の品種改良に成功しており、自社のECサイト「Regional Fish Online」で販売するほか、百貨店の催事展などにも出店しています。
また2021年の12月からは京都府宮津市のふるさと納税の返礼品にも採用されました。
購入してその味を体験した人からは「天然の鯛やトラフグと変わらないおいしさ!」と好評で、魚だけでなく、エビ(バナメイエビ)の試験養殖にも建設業者など大手企業との共同事業として着手しています。
リージョナルフィッシュは、京都大学と近畿大学の共同研究によってマダイの品種改良に成功したことをきっかけに、その成果を社会実装する目的で立ち上げられた大学発のベンチャー。販売中の「22世紀鯛」は、その研究の成果によって生まれた新品種のマダイです。今、同社ではマダイ、トラフグ、エビのほか約20品種の品種改良を進めているとのこと。
持続可能な方法で飼育したおいしい水産物の安定供給を目的に2019年に創業。それからの3年の間に、さまざまなビジネスコンテストで表彰されるほか、経産大臣賞、農林水産大臣賞など数々の賞を受賞。アジア圏における有望な中小企業やスタートアップ企業100社をリストアップする「フォーブズアジア100」にも選出されています。2022年の夏には約20億円の資金調達にも成功。10社を超える大手企業との業務提携も決まり、さまざまなプロジェクトを急展開しているところです。
社員は経営陣を含めて約30人。そのうちの23人が研究員(16人が博士号取得者)という、まさに研究開発型ベンチャーらしい構成。今後はビジネス面に力を入れるため、マネジメント系スタッフの採用に力を注いでいるところです。
「欠失型ゲノム編集」とはいったいどんなものなのか
同社が品種改良で行っているのは、「欠失型ゲノム編集」というものですが、いったいどのような技術なのでしょうか。
「もとのゲノムから一部分だけを取り除くのが、当社が行っている『欠失型ゲノム編集』技術です。これは自然に起こりうる変異を人工的に作り出す技術ですが、原理は通常の品種改良と同じです」(経営企画部 岩井さん)
この「欠失型ゲノム編集」で使われているのは「CRISPR/Cas9(クリスパー・キャス9)」という技術で、アメリカとフランスの女性研究者2人の共同研究によって開発され、2020年にノーベル化学賞を受賞しています。リージョナルフィッシュでは、ライセンス契約を結んでこの技術を活用しているそうです。
長い歴史の中での品種改良は、自然の作用で突然変異したものを選抜して育てたり、異なる品種をかけ合わせたりすることで、長い時間をかけて行われていました。
1950年頃に遺伝子操作の技術が生まれてからは、品種改良が格段に容易になったものの、狙った変異を起こすには精度に欠けていたと言います。
そもそも品種改良とは、太陽の紫外線の影響など、自然の作用で突然変異を起こした品種をもとに行われるものだったのです。その突然変異を遺伝子レベルで人工的に起こすために、放射線や薬剤を使って遺伝子にランダムな変異を与え、その中からもっとも目的に合う変異をしたものを選んで育てる、といったやり方で改良が行われてきたそうです。
「それに対してクリスパー・キャス9は狙った場所を正確に切り取れるため、狙っていない遺伝子を切り取るオフターゲット変異を避けることができます。この技術で狙ったとおりの変異を起こし、目的にかなった品種改良を効率的に起こしていきたいです」(岩井さん)
岩井さんの説明によると、たとえば「22世紀鯛」では筋肉量を調整する遺伝情報を備えた個所を切り取り、「22世紀ふぐ」では、食欲を制御する遺伝情報がある個所を切り取ったということです。
同社が「ナノジーン育種」と呼ぶこのゲノム編集プロセスによって、従来なら数十年かかる魚の品種改良を、わずか2~3年で実現したのです。
日本最大の回転ずしチェーンとの共同研究もスタート
クリスパー・キャス9の技術が、同社独自の技術でないなら他の企業でも真似できるのではないかと気になりますが、その心配には及ばないようです。
最先端のゲノム編集技術に加えて、近大が建学以来、脈々と積み重ねてきた魚の養殖技術を導入しているからこそ品種改良ができ、なおかつその魚を大量に育てることができると言えます。
「ゲノム編集作業は、受精卵を使って行われます。次の世代を作る完全養殖の技術力がなければ品種にできません。2つの技術を合わせ持つプレーヤーは私たちのほかに見当たりません」(岩井さん)
ちなみに近大が60年代から約30年という長い年月をかけて品種改良に成功した「近大マダイ」(ふつうのマダイよりも成長速度が2倍)は、亜種も含めるとすでに日本におけるマダイの稚魚(種苗)の過半を占めているそうです。水産物の世界では一つの品種改良の成功が、ビッグビジネスになる可能性を秘めているのです。
この技術の可能性に回転ずしチェーンのスシローが出資をしており、これから共同でさまざまな魚種の品種改良と量産のしくみを開発していく予定だと言います。
食品として安全な理由
ここまでリージョナルフィッシュが手がける技術の革新性やビジネスの可能性について紹介してきましたが、では食品としての安全性はどうなのでしょうか。
「私たちが行っているのは、自然界で起こる変異を科学の力で短期間に起こしているだけなので、原理は従来の品種改良と何も変わりません。品種改良の果物や野菜を食べるのと同じ程度の安全性です」(岩井さん)
「ゲノム編集」と聞いて、不安になる消費者が一定数いることは同社も認識しているとのこと。そうした不安の声には、データによるエビデンスを示しつつ丁寧に説明することで理解を得ていきたいと岩井さんは話します。
これまで消費者の反応を見てきたかぎりでは、「ゲノム編集」という言葉に「遺伝子組換え」をイメージして不安を感じている人が多いことがわかっているとのこと。
「『遺伝子組換え』は遺伝子の配列の中に、異なる生物の遺伝子を組み込む技術ですから、そこで生まれる品種は自然界には存在しえないものです。しかし当社が行う品種改良はもともとある遺伝子の一部を取り除くだけなので、遺伝子組換えとは異なり、自然界に存在しうる品種になります」と岩井さんは強調します。
同社では、「22世紀鯛」「22世紀ふぐ」を販売するにあたり、厚生労働省や農林水産省への届出も完了しているとのこと。世界で食の品質基準が厳しいと言われる厚生労働省では専門家会議を開いて検討した結果として、安全性は従来の食品と同程度で問題がないとの判断を下しており、農水省は生物多様性への影響もないとの判断を下しています。
少なくとも、規制当局が専門的な見地で調べたうえで、特別な基準やルールの摘要は不要としていることからも、疑いの余地はなさそうです。
養殖を、よりサステナブルな事業モデルに
リージョナルフィッシュが展開している事業は、サステナビリティを考慮した事業モデルでもあります。前述した通り、「22世紀鯛」では、重量に対する餌の量は通常の2割減となり、「22世紀ふぐ」では4割減となるため、その分、環境負荷が減ります。
筋肉が1.2倍に増え、生育スピードがほぼ2倍になるなら、餌もその分、増えるのではないかと思ってしまうのですが、実際には「従来のマダイやトラフグよりも少なくなる」(岩井さん)とか。
「それに加えて当社が行っているのは陸上養殖で、海洋汚染のリスクもありませんし、餌のロスも減ります」(岩井さん)
海面養殖では、魚の病気を予防するために薬剤を撒いたり、残餌が海底に落ちて溜まったり、海中に流れてしまったりすると餌にロスが発生すると同時に、環境汚染や赤潮等の原因にもなると指摘されていますが、陸上養殖ではその心配がないというのです。
ただし陸上養殖では、プラント設備を稼働させるために電力などのエネルギーが必要で、結果その分の二酸化炭素(CO2)が排出されることになってしまいます。この問題を解決する研究も進めているそうです。
ゲノム編集によって光合成でより多くのCO2を固定する新品種の藻類を育て、この藻類をゲノム編集した水産物に食べさせることで海水中のCO2を固定化させる仕組みをNTTとの共同で研究しているとのこと。こうして陸上養殖を、カーボン・ニュートラルな循環システムに変えることに取り組んでいます。
全国各地域の「リージョナルフィッシュ=地魚」を手がける
「効率的においしい水産物のタンパク質を作ることで、世界のタンパク質不足を救うと同時に、水産業を盛り上げたい」。リージョナルフィッシュでは創業以来、このミッションを掲げ、さまざまなプロジェクトに動き出しています。それにしても気になるのはリージョナルフィッシュという社名。日本語に訳すと「地魚」という意味ですが、いったいなぜこの社名なのでしょうか。
「私たちは社名のとおり、国内外に“その地域ならではの品種”を、開発して育てていきたいと思っています」(岩井さん)
そのような思いから、ふるさと納税サイトを運営する「さとふる」との協業などを通して、日本各地域に海産物の名産品を作ることも、今後の取り組みの一つにあげています。
たとえば島根県から名産のイワガキをもっと身の大きいものにしたいといった相談が入ってきたり、「何か一つ、海産物で名産を作りたい」といった相談も寄せられていると言います。
魚離れが進んでいる日本で、好きな魚が自由に食べられなくなってきている現状を憂いつつ、「日本を、いつでも好きな魚が自由に食べられる国にしたい」と岩井さんは言います。
世界で勝てる産業を日本につくる
その一方で、世界で進む食糧危機の課題解決にも動き出しています。今、進めているのはインドネシアの現地ECスタートアップとの共創事業による、ゲノム編集とスマート養殖設備の拠点づくり。
「動物性タンパク質が不足しがちな新興国に対しては、魚のサプライヤーとして社会貢献を果たしていきたい」と岩井さん。当面は自社の技術を、国内と海外との2方向で、それぞれ別々の事業を展開していくとのこと。
かつて目だった産業もなく、ただ寒く険しい自然しかなかったノルウェー。ひっそりと地元の漁師がはじめたのは、世界で誰もチャレンジしたことのなかったサーモンの養殖でした。それからおよそ半世紀の時を経て、生で食べられるノルウェーサーモンは、いまや世界の食卓に届けられ、一国を支える産業にまで発展しています。
日本食ブームが世界に広がる中、日本発ゲノム編集の水産物がやがて世界の食卓やレストランで振舞われる日を期待し待ちたいと思います。
取材・構成/大島七々三、SD編集部
写真・図/リージョナルフィッシュ株式会社提供